思い出したくない事は、誰でも一つくらいはあるものでしょう?
消して、差し上げますよ。ええ、もちろんきれいさっぱり。
その代償と言っちゃあなんですが……、ああ、そんなに怯えないでください。
別に命を取ろうなんて思っちゃあいませんよ…ヒヒヒ。
ああ、代償ね。そうだそうだ。
…あなたの思い出、私に下さりませんかねえ?
え?何に使うのかって?
そりゃあ野暮ってもんですよォ、お兄さん。
別にきれいさっぱり片付けたい思い出なんですから、未練もないでしょォ?
ヒッヒ…、まぁじっくりゆっくり考えてくださいな。時間は、たっぷり、あるんですから。
随分長い事、夢を見ていた気がする。
大概、夢というものは起きてしまえば忘れてしまうものである。
特に僕は朝が嫌い、というか、寝起きが酷くだるいため、1時間はぼけっと座ったままでいる事も常だ。
今日もまたいつも通り、ぼうっと窓を眺めて、熱いコーヒーをちびちびと飲み、脳が覚醒したのを見計らってシャワーを浴びる。
なんだかんだいつもそうしていると遅刻ギリギリになってしまうので、枕元で存在感を示すそれに気づく事はなかった。
そのままごくごく平凡な一日を過ごし、自宅に戻ると奇妙な空気が体にまとわりついた。
「…………………………なんだ、これ」
ぐらぐらと目まいもしているような気がする。
ふらふらと壁に手をつくと、耳につく甲高い声が脳に直接響いた。
「お兄さん、お兄さん……」
「だれ…だ…」
「そっちじゃないですよォこっちこっち」
「なん…だ…」
「いえ、ね?昨日の事、覚えていらっしゃらないみたいなんで、ちょいとそこの鏡を借りまして…」
ちょいちょい、と指の先で姿見を指さしたそいつは、尚もニタニタと笑いながらこちらに手招きをしている。
「ふらふらとこちらに来ちゃいましたよ…そいでお兄さん、こいつを、覚えているかい?」
なんだ?と、声には出してないはずなのに、そいつの声が頭に流れてきた。
「ヒヒ…お兄さん、忘れたい思い出があるね?ああ、甘酸っぱいなぁ…ああ、こいつぁ酷い、悲しいねぇ…
忘れたい、忘れたいねぇ。…少しは思いだしたかな?この本の事を」
ぐらぐらと目まいがするなかで辞典程の厚さの本が目に入った。
背表紙が真っ黒のその本には「笠原 友也の記憶」という文字が存在感を主張している。
「そして、私の事も……………そう、昨日もお会いしましたねェ…夢の中で。
この本の使い方は覚えていらっしゃいますか?」
体が思うように動かず、口の中だけでおぼえていない、とだけ紡ぐ。
「左様ですか…では説明してあげましょう。優しいですねェ私は――
この本はねェ、あなたの忘れたい記憶を忘れさせてくれる魔法の本なんですよォ…
本を開くと…ほーら、ページは全て真っ白でしょう?
ここに、あなたが忘れたい思い出、記憶、感触を書くんですよ、ああ、
別に油性ペンじゃなくてもかまいやしませんぜ。
ただし、消しゴムを使っても消せやしませんので、ご注意を。
そう、記憶を書いたら、この栞、……キレイでしょォ?
これを消したい記憶のページに挟むんでさァこうして………ね。
そうしたら、あなたの記憶はきれいさっぱりなくなります。
もちろん、本のページからもなくなりますよォ。
そうしたら、あんたはまっさらな頭になってやり直しができるんだ。
――まぁ相手が覚えてる場合は保証しませんけどもねェ…。
消した記憶は私が頂いても宜しいですかねェ?
え?何に使うのかって?
そりゃあ野暮ってもんですよォ、お兄さん。
別にきれいさっぱり片付けたい思い出なんですから、未練もないでしょォ?
ヒッヒ…、まぁじっくりゆっくり考えてくださいな。時間は、たっぷり、あるんですから――」
聞こえた声はそこまでだった。
次に僕が目を覚ましたのは、自室のベッドだった。
そして…………………枕元の本の存在に気がついた。
「夢じゃ…………なかったのか……………………かさはら、ともや、のきおく」
本にはあの怪しい奴が言った通り、栞が挟まっている。
「な……………!」
その栞は赤から、黄色、そして青と色をくるくると変えて行くのだ。
僕はとても不気味に思えて、その本を栞ごと壁に向かって投げつけた。
体にぬるりとまとわりつく湿った空気が不快で、その日僕はシャワーを浴びてさっさと寝床へ着いた。
願わくば、明日にはその本が消えていますように、と祈りながら。
ところが、夜が明けても、また次の夜が明けても、その本は部屋の片隅で存在感を主張していた。
時折不気味に栞が光る。
そのうちに僕は、一度くらいなら試してもいいかもしれない、どうせ眉唾ものだ、などと思い出を消す事へ理由を探し始めて、その本の興味でいっぱいになっていた。
バイトで帰りが遅くなった今日。
遂に僕は、その本に手を伸ばした。
どんな、記憶を消そうか。
消したくても消せない、思い出か。
消した方が、楽になるであろう思い出か。
僕は…………………