昨年の話だ。彼女がこの部屋を出て行ったのは…。
一緒に入る時間が長すぎて、彼女が出て行ったあとにこの部屋はこんなに広かったのかと
孤独を感じたものだ。
その彼女も今や、立派な保育士になって、現場で活躍しているはずだ。

彼女の名前は陽菜。
大学に入学してすぐに意気投合し、大学4年間をこの部屋で過ごした。

別れは……………唐突だった。
ある日僕が部屋に戻ると、彼女の存在がそこから綺麗に消えていたのだ。
揃えたカップが割れていた。…いや、割られていた、という方が正しいのかもしれない。
そのカップの上に、さよなら、とだけ書かれた手紙が添えてあった。
ところどころ丸いその筆跡は、彼女のモノだった。

理由もつけずに別れた彼女の記憶は、今でも僕の心に巣くっていたのだ。


思い立ってすぐ、僕は彼女との消したい記憶を書き綴った。
はじめてのクリスマス、手編みのマフラー、彼女の描いた歪な僕の似顔絵。
それら全てを綴り終わると、失笑すらも浮かべながら、

「これで、消せるものなら、消してくれよ……………」

怪しく光る栞を分厚い本に挟み込んだ。

すると、はじめはゆっくりだった。
彼女の髪の毛の感触が消えた。
そして次に彼女の好きだったワンピース…好きな色、泣き顔、笑顔、声。

僕の記憶の中には…………ふわりと浮かぶ女性の名前だけが残った。

それから数日がたった。
時たま浮かぶ、ひな、という言葉はなんだろう?
喉まで出かかっているのに、思いだせない。
僕の部屋にある本の上に置いてあったメモに名前だけが残っていた。
あの本は、得体のしれない不審者が部屋に置いていった物だ。
なんでも記憶を消す事が出来るらしい。………………眉唾ものだ。

昼時のカフェが混むのは知っていたつもりだったが、今日は特別女性客で賑わっているように見える。
何気なくメニューに目を通すと、どうやら今日は女性に特典でデザートがつくサービスデイのようだ。
しくじったなぁ…そう口の中で呟いた時、ふいに後方から声をかけられた。

「友ちゃん………………」
「え?」

声がする方向に顔を向けると、ショートカットの女性が目に入った。
親しげに名前を呼ばれたものだから、知り合いかと思ったが初めて見る顔だ。

「………かわってないね、またエスプレッソ?」
「………はぁ?」

僕の趣向を言いあてる彼女に不信感を抱いた。

「…誰?」
「え!!ああ、そっか。髪の毛、結構ばっさり切っちゃったから。でも、忘れるなんて酷いな」

ひなだよ、と彼女が言葉をつづけた。
ひな、ひな、彼女の顔を見ながらその言葉との関連性をを探したけれど、見つからなかった。

「……………………そういえば、私友ちゃんに声をかける権利、なかったよね」
「ん?」

やはり知り合いらしい。
僕の事を「友ちゃん」と呼ぶのは、妹と母親、それにごくごく親しい友人くらいのものだが…。
友人の友人とかそのような感じなのだろうか。

「ああ………いや、…別に気にしてないよ」
「え?!………友ちゃん、やっぱり変わってないよ………なんでも、許してくれちゃうんだもん」
「ああ、まぁ…良く言われるよ」
「…………いっぱい傷つけて、ごめんね。じゃあ、私、いくね」

そそくさと去っていくひなという女性の背中に何故か後ろ髪を引かれる感覚に陥った。

「別に、すごくタイプって訳じゃないんだけどなぁ」

午後にかけて更に込み合う店内からそそくさと逃げるように立ち去り自分の部屋に戻ってきた僕は、
デジャヴと思える不快感に見舞われた。




ほほにべったりと張り付くような湿気を纏った空気が絡みつき、雨でも降ってるのか?と思いながら
除湿機のスイッチを入れようとしたその時、

「お兄さん、お兄さん……………」
「…………あんたは…!?」

「おやぁ、今度は覚えていてくれたみたいですねェ………」
「……何の用だ」

「つーれないなァ…さっそく使ったんでしょォ………」
「使ったって…あの本か?」

「あーあ、こりゃァいけねェ………お兄さん、あんた本を使った事まできれいさっぱりじゃないか」
「…………僕が?あの本を?なんのために?」

「そりゃあまァ……でもきれいさっぱりだしなァ……綺麗な人でしたね…………陽菜さん、でしたっけ?」
「ひな?……今日話しかけてきた子か…知らない子…だったけど」

「そこですよォ きれいさっぱり、なのは」
「……………僕が、消したのか」

「ええ、そうです。しかしまァ残念な事に……………」
「…なんだ?」

「お兄さん、手ぬるいんですよォ………思い出の残骸、彼女という光の残照、あなたの心の裂傷…
 ぜーんぶ残っちまってら……」
「ざん…?」

「つまりアンタは、甘ーいあまーい彼女との記憶だけを消しちまったのサ」
「甘いって、よくわからない」

「陽菜さんを見て、何故か懐かしい気持ちになったなァ?」
「う…」

「後ろ姿を見て、抱きしめたくなったんじゃないかァ?」
「い、や…」

「言い知れない心のチクチクを感じたりしたろォ?」
「え…」

「それが心の残響さ。それを残さないためには、しっかり彼女の名前を綴らないと………」
「名前…陽菜………そうだ、陽菜………だ」

「そうそう、ものわかりがいいねェやっぱりお兄さんにコレを託して良かったよォ…………さ、改めて」

フードでほとんど隠れているそいつが血の通っていなさそうな青白く細い腕を僕に伸ばし、
テーブルに無造作に置いてあった黒いペンを握らせた。
一瞬だけ触れたその手はひやりと冷たく、僕までも血の気が引く思いがした。

奴に握らされたペンを持ち、僕は……………

inserted by FC2 system