部屋のドアを開けると、ジュノが私を無言で睨む。
「はい、はい」
靴を脱いですぐ、風呂に向かうとほっと溜息をついたのが感じ取れた。
ぬるいシャワーを浴びながら、先刻の電話を思い出した。
仕事。
ジュノはその言葉が世界で二番目に嫌いだから。
仕事という単語が出るとあからさまに嫌な顔をする。
ササラ一人くらい、俺が面倒見れるのに。
そうジュノは言うけれど、それでは私が困る。
夢吸の力はありすぎても困るけど、無くなっても困るから。
「いつまで入ってんの。茹でダコになるよ」
「…………タコ。茹でたら美味しい」
「ああ、美味しい。けど、茹でササラは美味しくなさそうだ。そろそろ上がった方がいい」
「うん」
浴室を出ると、キチンと畳まれた寝間着とタオルが置いてあった。
水気を拭き取って寝間着に着替えると、夕飯の匂いがする。
「天ぷら」
「そう」
「菜の花のお浸し」
「うん」
「葱と豆腐のお味噌汁」
「あたり」
「しろめし」
「そこはご飯でいいんだよ」
「いただきます」
ご飯の前には手を合わせる。
それを教えてくれたのもジュノだった。
ジュノはいつも困った顔をするけれど。
いつだって私の世界の中心には、ジュノがいる。
因果とか、しきたりとか、習わしとか。
言葉にしようとすればきっとそんな感じだけど。
そのどれもに当てはまるようで、
そのどれもが外れているような気がする。
「わたし、これ好きだな」
「たらの芽?」
「たらのめ?」
「そう、たらの芽。山菜だよ。山の中に生えてる」
「たらのめ。ゼンマイの仲間?」
「そう。ササラの好きなゼンマイの仲間」
ジュノと暮らすようになって思った事は多々あれど、一番は。
私はなんて狭い世界に居たのだろうか、ということ。
家に居たころは知らなかった眩しい世界の数々。
それら全てはジュノに教わった事。
「相変わらずササラの好みは渋いね」
「そう?」
「ああ」
朝、昼、晩にあたたかい食事を用意してくれて。
美味しいというと喜んでくれる。
ジュノは「それって結構普通の事だよ」と、言うけれど。
私にとっては、全部が新鮮だった。
「ジュノ」
「なに」
「今度はどこ?」
「そうだな……これからの時期なら北の方面もいいかもしれないね」
「青森?」
「青森だとちょっと遠い。新潟辺りかな」
「新幹線、きらい」
「もう新幹線には乗らないよ」
「本当?」
「ササラが嫌いだって言うから、車買ったんだろ」
「あ」
「……たまには食べ物以外の事も考えようよ」
「……うん」
各地を転々とする私とジュノに、明確な旅の目的も、到着点もない。
ただただ、ひっそりと暮らし、その場所に居られなくなれば別の土地へ移動する。
今回の町には半年くらい居ただろうか。
長い方だったかもしれない。
ジュノが、強盗と間違われて警察に行く事がなければもっと居たかもしれない。
「ササラ、ここが気に入ったなら、また戻ってくれば良いよ」
「………ううん、いい」
「そう?」
「うん、だってきっと…………」
次に来たときには、友也も友也のお母さんも。
八百屋のおじちゃんも、角の豆腐屋のおばあちゃんも。
きっと。
「私の事…………」
「ササラ」
「……………気味悪いって」
「ササラ」
ジュノががちゃん、と音を立てて食器を置く。
その音に驚いて顔を上げると、ジュノが微笑んだ。
「大丈夫。あんな事は二度と起きない」
「ジュノ………………」
「そのために俺が一緒にいる」
「うん」
返事をしながらも、私の心は遙か昔の出来事へと向かっていた。
父の怒声、母の涙。
生臭い血のにおいと、金属がぶつかりあう怖い音。
赤く赤く、焼けて行く家具と床。
煙を吸いこんだ時の苦しさ。
一番最初の、苦い記憶。
「ササラ」
「大丈夫」
大丈夫。
それらの記憶の最後には、ジュノがいる。
「新潟はお米が美味しいよ」
「しろめし?」
「…どうしてそういう事ばかり覚えてるんだ。せめて白米にしよう」
「白米」
「そう。白米。他にもきっとササラが気に入る美味しいモノがあるよ」
「そっか。楽しみ」
ねぇジュノ。
私は言葉があまり得意じゃないけど。
いつかこの気持ちを言葉にする事が出来たなら、誰より先に。
貴方に伝えたいと思うんだよ。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
「そう?食べたら今日はもう寝た方がいい。昨日寝てないんだろ」
「うん」
「俺も昨日はずっと質問攻めされて寝てないから、ササラと一緒に寝るよ」
「隣に寝ていい?」
「………………………うん、いいよ」
「じゃあ寝る」
ご飯のあと、お皿の片づけを手伝って、布団を並べる。
「ササラ。俺は大丈夫だから」
「わかってる。私も今日は疲れてるから、使えない」
「そか。じゃあ、おやすみササラ」
「おやすみ、ジュノ」
その日見た夢の中には、ジュノが出て来て。
困った子だね、とそう言って。
どうして?と問いかけた私を見ると、首を振り、
今はまだそのままでいいよ。
とそう言った。
その言葉の意味を考えているうちに、私は深い眠りの世界へと旅立ったんだ。